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タイタニックのモデルになった夫婦など〜。

http://harpersbazaar.jp/lifestyle/culture/titanic-cuddling-couple-true-story-171222-hns#p0

ベッドの上で最期を迎える老夫婦
沈没するタイタニック号から脱出することを諦め、ベッドの上で祈るように最期を迎える老夫婦。部屋が浸水し始めると夫は妻の手をしっかり握り、頬に優しくキスをするシーンに涙した人も多かったのでは? この映画で監督を務めたジェームズ・キャメロンによると、彼らの名前はイジドー・ストラウス(当時67歳)とアイダ・ストラウス(当時63歳)。イジドーは米百貨店メイシーズの経営者で、夫婦は「最後までお互いを愛し続けた」という。

本当は救命ボートに乗れた
1912年4月14日、「沈まない船」として宣伝されていたタイタニック号が氷山と衝突。船が沈没することを知ったイジドーとアイダは指示通り、ライフジャケットを着用し、船のデッキに避難した。
アイダのメイドとイジドーの同僚(共にタイタニック号に乗り合わせていた生存者)の証言では、女性や子供、そしてファーストクラスの乗客を優先的に救命ボートに乗せていたため、2人ともボートに乗ることはできた。でもイジドーは乗ろうとしなかったのだと。「彼は『女性や子供たちが全員無事に脱出するまでは乗ることができません』と言ったそうです」と語るのは、2人のひ孫で歴史家のポール・クスマン氏。「航海士たちに『ストラウスさん、私たちはあなたのことを存じております。だからあなたを優先的にボートに乗せなければいけないのです』と言われても、彼は乗りませんでした」と説明した。
それを聞いたアイダは、救命ボートから降りて夫のもとへ。「彼女はその時、『私たち夫婦は40年間も素晴らしい人生をともに過ごし、6人の子供たちにも恵まれた。あなたがボートに乗らないなら、私も乗らないわ』と語ったそうです」
そしてミンクのコートをメイドのエレン・バードに渡した。「アイダは『これはもういらないわ。だからあなたが着てもらいたい。救命ボートに乗り、救出されるまでは体を暖かくしてくれると思うわ』と彼女に伝えました」
そんなアイダをイジドーは抱きしめた。「すると突然の大波に襲われ、2人は海に投げ出されました。彼らを最後に見た目撃者から、『2人は最後まで抱き合っていた』と聞いています」

映画と実話で異なる点
映画『タイタニック』の未公開シーンで、イジドーは救命ボートにアイダを乗せようとする。でも彼女は「あなたが行くところに私もついていく。反対しても無駄よ。それはあなたが一番よく分かっているはず」と拒否。
映画に登場するシーンも未公開シーンも事実とは異なる点があると話すクスマン氏。「ジェームズ(キャメロン監督)もそれを理解しています」「イジドーとアイダはベッドの上ではなく、本当はデッキで亡くなったのです」
キャメロン監督もそのことについて、「私は脚本家であり、歴史家ではない」と米『USAトゥデイ』紙にコメント。また映画の中で一等航海士のウィリアム・マクマスター・マードックが乗客を射殺してから自決することについても、「実在する人の名前を使っているけれど、彼は運行責任者という役ではないし、彼が実際にとった行動を描いたわけではない。ただ、全体のストーリーを考えた時に、重い責任を負わされたキャラクターを登場させた方が面白いと思ったんだ」と話している。

イジドー&アイダの愛の物語
1845年2月6日、ドイツのオッテンブルクで生まれたイジドー。1850年中頃にジョージア、その後アメリカに移住し、ニューヨークでアイダと運命の出会いを果たす。1871年、26歳だったイジドーは、22歳のアイダにプロポーズ。「彼らは愛し合っていました。街中で手を繋いだり、キスをしたり、ハグしたりもしていました。当時、彼のように社会的地位も経済力もある男性が人前で愛情表現を披露するのは、とてもめずらしいとされていました」「ある時なんて、人目もはばからず愛撫したりもしていたようです!イジドー&アイダは、強い絆で結ばれ、最後までお互いを愛し続けました。私たち子孫もそれを誇りに思っています」とクスマン氏。
それからイジドーはメイシーズを買収し、1894年には民主党から下院議員に。仕事の関係で海外に長期滞在する際、彼は毎日欠かさずアイダに手紙を書いた。そしてアイダも、すぐに返事を書くのだった。アイダが1890年7月25日に書いた手紙には「ネイサンに誘われて、みんなでピクニックに行ったの。とても楽しかったけれど、あなたがいたらもっと楽しかっただろうな」と綴られている。
1872年、2人の間に長男ジェシーが誕生。その後、パーシー、サラ(クスマン氏の祖母)、ミニー、ハーバート・ネイサン、ヴィヴィアンと合計6人の子供たちを授かった。

タイタニック号沈没事故の当日
1912年、南仏でバカンスを過ごしたイジドー&アイダは、いつも利用しているタイタニック号の姉妹船オリンピック号が遅れていたため、タイタニック号でニューヨークに戻ることに。
『A Titanic Love Story: Ida and Isidor Straus』の著者ジューン・ホール・マカッシュ氏によると、2人はデッキCのスイートルームに宿泊し、メイドのエレンも向かいの部屋に泊まっていた。事故当日、イジドー&アイダはファーストクラスのダイニングルームでコース料理を堪能した後、腕を組みながらアッパーデッキで散歩を楽しんだという。そしてその夜、タイタニック号は北大西洋のニューファンドランド沖で氷山と接触し、2,224名の乗客のうち、1,500名以上が亡くなった。

ゴールドのロケットペンダント
その後、アイダの遺体は見つからなかったけれど、イジドーの遺体は海で発見。ズボンのポケットに入っていたゴールドのロケットペンダントには「I S」のイニシャルがあしらわれ、中には長男ジェシーと長女サラの写真が入っていた。「そのペンダントは家宝として代々受け継がれています。最初は祖母のサラ、次に母、そして今は私が所有しています」
1912年5月12日、カーネギーホールで行われた2人の追悼式には約6,000人が参列。ウィリアム・ジェイ・ゲイナー元ニューヨーク市長とアンドリュー・カーネギーは弔辞を捧げた。2人はニューヨーク・ブロンクスにあるウッドローン墓地に埋葬され、「Many waters cannot quench love, neither can the floods drown it(水がいくらあっても恋の炎は消せない。浸水で押し流す事もできない)」と刻まれた記念碑も建てられた。「世界中で愛やインスピレーションが必要とされている今、イジドーとアイダの愛の物語が人々に少しでも希望を与えることができたら嬉しいです」とクスマン氏。彼の願い通り、2人のラブストーリーはきっと世界中の人々に夢と希望を与えるだろう。

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  by leonardo_D | 2017-12-23 23:29 | タイタニック3D

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